誰そ彼に橙をした薄羽の

 夕日が燃え尽きようとしていた。
 ゆらゆらと水面に映るよう、燃える陽は踊り、地に沈む。

 赤い空の下に、長く伸びる影がふたつ。
 佐隈とベルゼブブ。一人と一匹は、齷齪(あくせく)と休みなく働く灰色の街を横目に、のんびりと散歩でもするように、茜射す小路を歩いていた。それぞれの手には、買い物帰りの白いビニール袋がぶら下がる。

 緩やかな坂を下りながら、ベルゼブブはぶぶぶぶと低く羽を羽ばたかせる。
 宙を不安定に飛ぶたび、身体に見合わぬ大きさのビニール袋が揺れた。中身は、大事な今夜のイケニエ、佐隈のつくるカレーの材料だ。ペンギン姿の不器用な手先が、器用にしっかりと持ち手を握りしめる。
 ――そのとき、

(この、気配は――)

 頬を掠める一陣の風に、ベルゼブブは振り返った。
 生温い風の中に、微かにではあるが、嗅ぎ慣れた邪”を感じた気がした。水底の汚泥を掬い取ったように陰鬱な、それでいて、血に飢えた魔物たちが我が物顔で跋扈する、……特有の臭いはそうそう人間界にあるものではない。
 当然、少しばかり悪魔を使役できても魔界そのものとは縁のない佐隈は気付かない。ふんふんと暢気に鼻歌をうたいながら先を行く。

「待ちなさいさくまさん」
「なんですかベルゼブブさん? ……あ、いやですよ、犬の粗相したもの見付けたからって立ち止まらないでください!」
「勝手に決めつけないでいただきたい。ついでに高尚な趣味否定してんじゃねェぞクソタレ女!」
「じゃあ何ですか」
「悪魔の気配がするんですよ」
「悪魔?」

 オウム返しに佐隈が問うた。「えぇ」と頷いて、ベルゼブブは素早く周囲に目を走らせた。

「匂いがするんです」

――私と同じ、魔界の。


***


 がつがつがつがつ
 黒い影が、何かを食していた。炎のように赤い目が仄暗い路地裏に浮かぶ。
 佐隈が目を凝らしてよくみると、アザゼルの犬面よりいくらか凶暴な、狼を彷彿とさせる、しかしそれより大きな躰をしたケモノがいた。
 毛並みは荒く、口元には鋭く尖った牙、長くてらりとした舌が見え隠れする。唾液をぼたぼたと溢しながら、そこらのポリバケツから漁ったのだろう残飯を、周囲に散らばる瓦礫もろとも”噛み砕き、咀嚼し、喉を鳴らす。

「何、あれ……」

 雑食ってレベルじゃないですよね、と佐隈が声を強張らせた。ベルゼブブは獣にひやりとした侮蔑の視線を投げ、平然と言ってのける。

「魔獣というやつです。知能を持たない、魔界でも低俗なただのケモノですね」
「……魔獣?」
「えぇ。知識のない人間が呼び出した悪魔にくっついてきたか、逢魔が時にそれと気付かず迷い込んだといったところでしょう。餌の匂いにつられて、ね。……名乗る名前すらない奴らには頭脳というものがありません。あるのは意地汚い本能だけ。放っておいても害はないでしょう。ただそこらの、物質という物質が喰い荒されるだけで」

 獣たちの食すものをベルゼブブは食物とは称さなかった。つまり、雑食を極めた魔獣であるのだろうと佐隈は解した。
 確かに、このままでは廃れたビルの一棟くらい、軽々と食べ尽くしてしまいそうな勢いで食べ物”にがっついている。人に悪魔の姿は見えないが、物質の扱いはどうなるのだろう。……そう考えて、ぶるりと身震いをした。
 つんつんと服の裾を引っ張られて佐隈が振り返ると、いつもの眠そうな、何を考えているのかわからない目でベルゼブブが見上げていた。

「そんなことよりさくまさん、はやく帰って私のカレーをつくってください」
「……。そうですね、帰りましょう」

 魔獣とやらをまるっきり見なかったことにして、佐隈はあっさりと踵を返した。少し意外そうにベルゼブブが首を傾ける。

「おや、あの悪喰を止めさせろくらい言うのかと思いました。勿論お断りですけれど」
「言いませんよ。だって、関わるとろくなことにならないじゃないですか」

 今のところ、私に害はないですし、と佐隈はあっさり言い放った。
 我関せず。自分の身は自分で守る。金にならないことはしない。穏やかな日は穏やかなまま終わらせたい。
 彼女のいっそ清々しい表情に、ベルゼブブはふっと口元を緩めた。

「貴女も大概、悪魔らしい」
「何ニヤニヤしてるんですか。……って、べべべ、ベルゼブブさん?!」
「なんですか」
「あれ、思いっきりこっち見てるんですけど」

 佐隈の指さした先で、魔獣が唸り声をあげ始めていた。
 飢えた獣の目はスーパーの袋に釘付けだ。半透明の袋からは、じゃがいも、にんじん、それから、ちょっと奮発して購入した牛肉――今晩美味なカレーになるべき新鮮な食材が透けていた。

「仕方がありません。このベルゼブブのイケニエに目を付けたのが運の尽き。……お前の不運、冥府の底で嘆くが良い」

 ちっと舌打ちをした割には快活に、ベルゼブブはスーパーの袋を佐隈へ押しつけてつかつかと前へ進み出た。少しばかり弾んだ声色からは、佐隈の用意するカレーの他、デザートにもなる何とやらを手に入れんとする心算が透ける。
 透けてはみえるものの、ここはこの悪魔を頼りにする他はなさそうだ。【暴露】を職能とするベルゼブブは、件の趣味がなければ相当に優秀な悪魔なのだ。
 いま、佐隈の中ではその悪魔のご趣味よりも、彼女にとっては未知の魔獣とやらへ対する恐怖が勝っていた。後のことは後でどうにかしよう。次第によっては、グリモアによる制裁も厭わない。

 ベルゼブブが両の腕を交差させると、カッ! と丸い瞳が禍々しく光った。空間が、鈍く揺れる。

「ベルゼブブさん、何を?」
「……ほぅ」

 どこか遠くで犠牲となった誰かのか細い悲鳴があがったような気もしたが、獣は変わらず低く唸りを上げている。微風でも吹いたのかのように、ベルゼブブの力はまるで効いていない。ぴくりとペンギンの狭い額に縦筋が現れた。そして、ぷるぷると身体を震わせ、獣に劣らずと吠えた。ぴぎぃぃぃぃ!!!

「死にさらせえええええ」

 ベルゼブブは不穏なオーラを纏ったまま、禍々しいエネルギーの塊(恐らくは排泄を促す類の)を振りかぶって投げつけた。
 綺麗に放物線を描いたそれは、ぱっくりと大きく開いた魔中の口へと呑み込まれ、

げふぅっ
 少しの沈黙の後、品の無いげっぷが吐き出された。

「なんですってえええ?!」
「なんて悪喰……」

 ぼそりと佐隈が呟いた。
 魔獣はじりじりと様子を窺い、アスファルトで爪を磨ぐ。どうみても、平和的解決には至れそうにない。慌てて周囲を見渡すも、代わりになりそうな食材の類、あるいは奴を退けるだけの武器になり得るものは見つからなかった。
 アザゼルさんがいれば良かったのに!(食糧的な意味で!)と佐隈は、彼に留守を命じたことを悔いた。これは少し、危ないかも、しれない。

「ベルゼブブさん! なに遊んでるんですか!」
「ふざけてなんかいません」

 鬼の如く崩れた形相のまま、ベルゼブブが勢いよく佐隈を振り返った。ごくり、と唾を飲み込み、

「これは由々しき事態です。氏は不在。ここにいるのは悪魔使いとして未熟すぎる使えない佐隈さんと、力を制御されたぷりちーなペンギン姿の私だけ」
「自分でぷりちーとか言わないでくださいよ気持ち悪い」
「キメェとか言ってんじゃねェよビチクソ女ァ! 奴は何の制限も受けず魔界から来ています。かくなるうえは……」
「ちょ、ちょっと待ってくださいベルゼブブさん! その懐からおもむろに取り出したタッパーの中身、もしかして、いつぞやの山羊の……」
「違いますよ 野兎の糞です」

 ベルゼブブが高らかに持ち上げたタッパーの中で、ころころとした一口サイズのチョコボールに見えないこともない塊がカタカタと可愛らしく音を立てる。
 ――刹那、佐隈の手が神がかった速さでタッパーを取り上げ、夕陽のかなたへ投げ去った。

「ダメええええええ!!!!」
「ああああああ何しやがる!!!」
「何って当然です! 良いか悪いかで言えばこれは絶対アウト! 何があろうとこの選択肢は論外です!!」
「ではどうしろと言うのです!」

 ベルゼブブが抗議する後ろで、今か今かと魔獣の爪が地を撫でる。佐隈が鞄の中からグリモアを手にしたところで、ついに唸り声が咆哮に変わった。
 一足飛びに佐隈、もとい新鮮な食料を目掛け、魔獣は地を蹴った。襲いくる影に、とっさに目を瞑る佐隈の手のグリモアから緑色の光が弾けた。
 魔獣の躰とグリモアから発せられた真直ぐな光。力と力がぶつかり合い、衝撃は砂塵を巻き込み……白煙を成した。


***


「――……」

 白塵から現れたのは――
 左腕で佐隈を抱きかかえ、右腕を前へと突き出したベルゼブブ。その姿は人型の、魔界でのものに戻っていた。
 魔獣は地に伏し痛みにもがいていた。傷をした前脚がアスファルトを掴もうとするが、流れ出た自らの血により滑ってしまう。広がった赤は酷く毒々しい。
 ベルゼブブは優雅に宙に浮いたまま魔獣を見下ろし、口の端を歪めた。

「無様ですね」
「……べ、」
「さあ、我が眷属よ。同胞とも呼べぬこの哀れな肉を喰らうが良い」

 どこからか集まってきた蝿の大群が黒い塊となって魔獣の上に降り注いだ。狭い路地裏に醜い断末魔が轟き、佐隈は思わず耳を塞いだ。
 ベルゼブブは見向きもせず、貴族らしい完璧なたち振る舞いをもって、抱いたままの佐隈をそっと地に下ろした。勿論、大切な食材たちには指一本触れさせていない。

「本来の力を持ってすれば、こんな低俗な魔獣など私の敵じゃありません」
「……さ、ん」
「……できれば、最初からこうしていただきたかったんですがねェ」

 言いながら、佐隈をじろりと睨む。佐隈はというと、ベルゼブブの手が離れた途端、地面に吸いつくようへなりと座り込んでしまった。
 ソロモンリングを解除した反動がきているのだろうか。それとも、魔獣如きに恐怖して腰を抜かしてしまったのか。見知った悪魔相手には平然と血祭りにあげるくせに。
 その魔獣如き”に些か苦戦したことは忘却の彼方となった。何にせよ、馬鹿面が益々馬鹿にみえる。

「仕方ありませんね」

 やれやれと息を吐いて、ベルゼブブは手を差し出した。背丈の逆転した彼をぼんやりと見上げ、意図を掴めずに佐隈が首を捻る。察しの悪さにベルゼブブが小さく舌打ちをした。

「この私が運んでやると言っているんです。大人しく掴まりなさい馬鹿女」
「えっ えええ? 大丈夫ですよ、私歩けます!」
「お黙りなさい」

 何やかんやと理由をつけて大丈夫だと主張する佐隈を無視し、今しがた降ろしたばかりの彼女の身体を抱え、ベルゼブブは羽をひと振るいした。身体が音もなくふわり浮き上がる。
 空には最後の陽が赤々と燃えていた。


***


「ベルゼブブさん」
「何ですか、さくまさん」
「『私と同じ魔界の匂いがするんです』とか格好つけて言っておいて、結局居たのはさっきの悪喰な魔獣だけでしたよね」

 茜の空の上、ベルゼブブの腕の中でそういえば、と佐隈は思い出した。あれだけ勿体つけておいて、結局のところその正体はベルゼブブの卑下する低俗な魔獣だった。同じには同じ魔界だろうけれど、果たして、ひっかかりを覚えるような何かがあっただろうか。
 指摘すると、ベルゼブブはぐ、と詰まったような音を漏らした。

「……」
「あ、別に責めてるわけじゃありませんからね。助けてもらったのは事実ですし。ありがとうございます」



「――それと、格好良かったです」

 至近距離で、朗らかに佐隈が笑んだ。
 格好良いのは当然だろう、と口にはせず、ベルゼブブは鼻を鳴らした。真直ぐに褒められてうっかり口元が緩みそうになるのを堪え、代わりに佐隈を抱く腕に力を込める。

「しっかり掴まっててくださいね、さくまさん」
「えっ、わ、わああ」

 透明に近い薄羽が、朱色に染まって輝いた。
 佐隈の悲鳴を呑み込んで、昼と夜が歪に交じり合う夕闇に向かって影が飛ぶ。ふたりきりの時間を芥辺やアザゼルに邪魔されることのないよう、少しだけ遠回りをして。





 ――地上の深く長く伸びた影。その端で、宵闇に紛れて、悪魔が嗤った。
 それはまた、別のお話。