おやすみなさいナイトメア、よい朝を

 ベルゼブブは苛立ちと共に、深い深い溜息を吐いた。
 にんまりと笑ったチェシャ猫の口のような橙色の三日月をガラス越しに見上げ、次いでテーブルの上にちょこんと乗った時計のデジタル表示をちらと見る。暗闇にぼんやりと浮かぶ弱い蛍光は、丑三つ時を示そうとしていた。

 こんな真夜中に、一体何の用だというのか。

「まったく、こんな時間に呼び出すなんて、貴女には常識ってモノがないんですか」

 文句を言いつつ見渡した部屋が、見慣れないものであることにベルゼブブは気が付いた。 ローベッドの隅にはクッションと一緒にぬいぐるみが並べられ、バルコニーへと通じるであろう大きな窓には彩度の抑えられた桜色のカーテンが掛かる。いかにも一人暮らしの部屋といった様子だ。
 ――どうやらここは主、佐隈りん子の部屋であるようだ。

 狭い部屋だ、と彼は思った。
 彼が暮らす魔界の城と比すれば当然の反応だった。……狭い。部屋の中は普段彼女が書類整理の際に見せるようきっちり片付いてはいたのだが、広さ自体は偽りようがない。
 しかし、その狭い部屋いっぱいが彼女の香りに満ちている気がして、更にはかの芥辺もアザゼルも居らず彼女のテリトリーに招かれたのだと思うことで、少しばかりの優越に浸る。

 しかし、それもすぐに一転する。
 あたりに散らばった空き缶やらツマミやら、無造作に転がる飲み干された瓶の類をみて、ベルゼブブは苦々しく合点した。

(このクソ酔っ払い女がァ!!)

 大方、【暴露】の悪魔、ベルゼブブを召喚した目的はお酌をさせようだとか、好き勝手に飲み散らかした部屋を片付けろといったところだろうと想像がつく。
 そんなくだらないことのために、悪魔を、呼び出した。
 ベルゼブブは静かに小さな肩を震わせた。

 佐隈はグリモアを傍らに置いたまま、ベッドに半身を預けるようにして伏せていた。
 既に眠りの世界におちているのか、それともまだ意識があり……けれどでろんでろんに酔っぱらっているのか。
 グリモアを避け大きく迂回して、ベルゼブブはぺたぺたと佐隈のそばに寄った。

「さくまさん?」

 ゆさゆさとペンギン姿の丸い手が佐隈の肩を揺さぶった。が、佐隈は起きない。それどころか身体を捩り、ベルゼブブに背を向けてしまった。
 反対側に廻り込み、同様にして繰り返すこと、数回。

「……この私を呼んでおいて、無視をするとはいい度胸ですね」

 ぴぎぃぃぃ!!!
 堪忍袋の緒を切らしたベルゼブブが、ぺちぺちぺちぺちとその剣幕にしては可愛らしい音を立てながら、佐隈の頬を肩を背を容赦なく叩いた。

「起きなさいさくまさん! 起きて、今すぐ私にイケニエを捧げるのです。カレーを所望します。さあ起きなさい! さあ!」
「……」
「起きろ、と言っているのです! ビチクソ女があああ!」
「……、……あァ?」

 掠れた低い声と共に、ゆらりと闇を纏って佐隈が起き上がった。
 その背後の影が(佐隈の中に悪魔使いの才を見出したあの『悪魔のような』と悪魔に言わしめる)芥辺の纏うそれを彷彿させて、ベルゼブブは戦慄した。
 酒が入り気持ちよくなっていたところを無理やりに起こされたのだ。生じた機嫌の悪さを隠そうともしない。佐隈の左手が、グリモアに伸びる。

「ま、待ってくださいさくまさん。私は当然の指摘と要求をしたまでで、グリモアで罰そうなんて、そんな、不条理な!」

 ベルゼブブの切実な訴えも聞く耳持たず。相当量のアルコールが入り、本来ならばべろんべろんに酔っているはずの佐隈は、そうであるのが嘘のように淀みなく呪文を唱えはじめた。
 グリモアが、青白く光を放つ――ぼんやりとした光の粒が、一瞬にして広がった。

(殺られる!!)

 ベルゼブブはとっさに目を瞑り衝撃に備えた。
 が、覚悟した痛みはいつまで経っても襲ってこない。

「……?」

 恐る恐る目を開けると、先より少しばかり佐隈が小さく、フローリングの床が遠くなっていた。
 ゆっくりと己の手に目をやると、人間界でのぷりちーなペンギン姿……ではなく、見慣れた魔界での姿に変わっていた。

(――馬鹿が! 結界を解除しやがった!)

 偶然に偶然が重なったとはいえ、芥辺の掛けた強力な封印を解いてしまった。彼女の秘めた力には目を見張るものがある。
 けれど、そんなことより今は、この姿で在ることの利が大きい。

 ありったけの悪意が籠もった目で、ベルゼブブはにたりと黒く嗤った。
 魔界に近い夜の闇の中、おそらく自分が何をしたのか気付いてすらいない佐隈の上に影をおとす。

すぴー、すぴー、……

 きこえてくるのは間の抜けた寝息。

「さ〜く〜ま〜さぁ〜ん?」

 最後警告のつもりで発した声にも、佐隈からは何の反応もなく無防備に眠り続けている。

 さあどうしてやろうか。
 グリモアの掟の下において、悪魔は契約を交わした人間に危害を加えることはできない。しかしこれは絶対的な服従を意味しない。要は、グリモアが危害と判断しなければいいのだ。
 そう、例えば、能力の行使を持たずに単純な物理的刺激により排泄を促すだとか。口にするのも屈辱的な台詞を言えと命ずることだとか。そうだ。何時ぞやのイチゴの戦士とやら、あれをやらせるのも良かろう。羞恥に悶えながら役を演じる様を思えば、選択肢にいれてやってもいい。

 思案しながら、ベルゼブブは薄らと汗ばみ額に張り付いた佐隈の前髪を耳の後ろに避けてやる。
 悪魔らしい悪意に満ちた思考とは裏腹に、その行為は優しさに満ちていた。

 瞼はしっかりと伏せられ、間の抜けた寝息さえなければ、本当に死んでいるかのようだ。
 人間の生は短い。人間と悪魔。交わる線と線が成す角度は直角に近い。いま、彼女と契約し彼女と共に在るこのときというものは一瞬で過ぎ去ってしまう。

「……さくまさん」

 名を呼び、瞼の上にそっと指を乗せる。節のある、おぞましい緑色をした、人間とは異なる手。鋭く尖った爪を引っ掻けないよう気をつけながら、つつ、と指を滑らせ頬へ触れる。そのまま輪郭をなぞり、首へと流れ落ちる。薄い皮膚の下で頸動脈がどくりどくりと脈打った。指の腹を押し返す拍動に、何故だろう、ああ、彼女は生きている、と安堵した。

 彼女はどこにでもいるありきたりで平凡な人間だ。ただ悪魔を使役することができるだけの。非常に不本意なことに絶対強者として君臨する芥辺の下、彼女は確実に力を増している。その矛先が自分へ向くことは少ないけれど、恐々とすることは決して少なくない。
 彼女は特別美人というわけでもなく、カレーを作る腕前くらいしか褒められるところはない。限度というものを知らず、不快な酒の臭いを漂わせて、時折むぐぅと唸りを上げる姿は眠り姫には程遠い。

 ――眠り姫。童話の王子は傅き、百年眠り続ける姫に口付けをした。
 悪夢から覚める切欠がこの悪魔のキスとなれば、この女にしてみれば相当な屈辱になるだろう。それも、良いかもしれない。

 だらりと垂れ下がった佐隈の手を持ち上げ、指を絡める。人間の手と、悪魔の手。温もりが触れた皮膚を通じてじわりと広がる。
 そのまま、掌に口付けた。

(……何を、)

 名残惜しそうに唇を離し、ベルゼブブははっとした。
 何の意味も持たない戯れだ、と言い訳をするよう己に向かって言い聞かせる。

 彼女の髪が、細い首が、穏やかに上下する胸が、華奢な手足が、カーテン越しの薄ら明かりに照らされ美しく映ってしまったから、なんて思っちゃいない。
 目を覚ました彼女の瞳に私が映り、焦点を結んだ後にゆっくりと花が開くよう微笑む。湧き上がるそんな夢想を掻き消すように、頭を振る。
 これは……そう、ちょっとした悪戯心が芽生えただけなのだ。そうだ、そうに決まっている。決して、決して、それ以上のことを考えたわけではない。決して。

 ベルゼブブは己の葛藤に気付いていない。あるいは、無意識で気付かないフリを続けている。意識の上に昇るには、まだまだプライドが高すぎた。
 けれど、彼女に触れたい、もっと知りたいという欲求は、いまこのときにおいて人の姿であることが拍車をかけるのか、抑えがたい衝動となっていた。

「さくま、さん」

 指を絡めた手とは逆の手で、腹部を覆う薄い布をめくりあげ、下腹部に指を這わせる。 これで彼女が起きれば、それだけはやくイケニエにありつけるというものだ。
 免罪符を求めるかのよう言い訳を繰り返しながら、やわりと一撫でする。深い眠りに落ちようとしている彼女の体温は平生よりも高く、心地が良い。一応、注意深く反応をうかがってはみたものの、目覚める様子はない。

 ……もう少しだけ。大丈夫、まだ、大丈夫。
 起こしたいのか、そうでないのかベルゼブブにはわからなかった。起きるか起きないか(どちらかというと、このまま目覚めそうにはないのだけれど)のぎりぎりのところでの所作はある種の背徳を孕み、言いようのない高揚を生む。
 ベルゼブブは壊れものを扱うように優しく、すべらかな肌の感触を楽しんだ。

「……んっ」

 はた、と動きを止めてベルゼブブは寄り添っていた身体を離した。絡めた手は佐隈にぎゅうと握られてしまったので、繋がれたまま離れない。
 ただの寝返りだ。むにゃむにゃと言葉にならぬ言葉を呟き、涎でも垂れてくるんじゃなかろうかと思う馬鹿面のまま眠りこけている。危機感の感じられない無防備な姿に呆れ、

「……、……       」

 次の瞬間、ベルゼブブは驚きに目を見開いた。
 ……薄く開いた唇から、自分の名が零れた気がして。

(何なんですか、貴女は)

 心臓がどきりと跳ねた。
 僅かに揺れ動いた感情に名を付けられずにいる。人間に心を動かされたという事実さえ、気付かない振りをしている。
 悪意も悪戯心も、何もかもが削がれてしまった。残ったのは得体の知れぬ、気持ちの悪いもやもやだけ。

(ああ、もう)

 適当にに部屋を漁ればイケニエくらい、上手くすると冷凍保存してあるカレーくらいみつかりそうなものだけれど、それでは割に合わない。
 明日の朝、彼女が目を覚ましたらすぐに新しいカレーを作らせよう。

「誘ってんのかこの処女が」

 ベルゼブブの呟きが、静かに闇に溶けた。