貴女が望むのならどこまでも

 雰囲気があるといえば聞こえはいいものの、言ってみればただただ小汚く、品が良いとも言い難い人間たちの集まった薄暗いバーが、本日最後の出張場所となっていた。依頼人の夫の浮気の証拠をフィルムにおさめ、手際よく探偵としての任務を全うした二人は、ぴぎゃあぴぎゃあと騒がしい店内をまるで別世界の出来事のように眺めていた。二人というのは佐隈とベルゼブブ。夜のあまり治安の宜しくない場所での仕事ということもあり、例の如く、佐隈を供する彼の封は芥辺の手により解かれていた。

 気付くと、片方の姿が消えていた。
 あの目立つ金の髪を見失うわけがないのに、きょろきょろとひとり店内を見渡す佐隈が、運の悪いことに、柄の悪い男たちの目に留まってしまった。

「か〜のじょ、ひとり?」
「いえ、連れがいますので」
「またまたぁー」

 時代遅れにも程がある使い古された陳腐な誘い文句に乗せて、佐隈を囲んで右と左、壊れたステレオのように耳障りな声が降ってきた。

「きみみたいにかわいい子放っておくなんてそんな馬鹿いないでしょ」
「そうそう、俺たちと遊ぼうぜ」
「お断りします。迷惑です」
「そんなこと言わずにさあ」

 平穏無事に職務を全うした今、できることなら面倒は避けたい。けれどこの類の人間はあしらうのがなかなかどうして難しい。どうしたものかと佐隈が考え倦ねていると、

「彼女に手を出すな。穢らわしい人間風情め」

 耳慣れた声が、不快な音を一掃した。
 佐隈の背後に眉目秀麗な男の姿を認めるや、ナンパに励んでいただけの哀れな男たちはその後ろにただならぬ黒いオーラを感じ取り、じりじりと後退った。

「な、なんだよ。連れが居るならさっさと言えよ」
「そうそう、じ、邪魔して悪かったな。……はは、ははは」

 乾いた笑いに泳ぐ目線。先刻までの威勢はどこへやら、月並みな台詞を置き去りに、男たちはそそくさと逃げの姿勢に入った。
 だがしかし、指一本触れてすらいないものの、彼らが手を伸ばし掛けたのはかの悪魔使い、佐隈りん子であった。彼女の機嫌を損ねておいて、そう簡単に逃げられるわけがない。

「……さくまさん」

 彼女を庇うよう傍らに立つベルゼブブは横目で問うた。先を口にするまでもなく、佐隈は一言、

「やれ、ベルゼブブ」

 抑揚なく、なんの感情も込められず言い放たれた命令に、ベルゼブブは文字通り悪魔の如き笑みを浮かべた。

「なっ……」
「は、腹が……!」
「ぐああああっ」

 突如として襲いくる腹痛に必死で耐えながら、血走った男の目がぎょろりと件の部屋を求めた。目的とする個室は佐隈とベルゼブブの後ろにあった。その扉めがけ、我先にと突進する勢いで二人の間を抜けようとした男たちを、佐隈が だん、と壁に足をつき道を塞いだ。

「通してくれえっ」
「も、もう限界だああ」

 男の声が甲高く裏返った。荒い呼吸の合間から、ひっひっと嗚咽のようなしゃくりが漏れる。力なく膝をつき、がくがくと震える姿は無様としか言いようがない。
 悲痛な訴えもどこ吹く風。佐隈は彼らを虫螻でもみるように見下ろした。

「あぁ? 通してください、でしょう?」
「と、通してください! お願いします!」
「あー、きこえませんね。どこかでそよ風でも吹いたのかしら」

 とどめとばかりに押し寄せた波が、最早余裕のない男たちの顔をさらに青くした。悪魔は、指の腹で辛うじて引っかかっているような絶望の縁から容赦なく彼らを突き落とし、滑稽だと嘲笑う。





(いい気味だ)
 なんの感動もなくベルゼブブは思う。と同時に、麗しい彼女の姿を目にして、暫しの優越に浸った。

 血の海、積み上げられた亡骸の上に立つ彼女の笑みは、さぞ美しいことだろう。
 そんな想像をするだに、胸の奥がぞくりとする。

 この、悪魔より悪魔らしい残忍非道な悪魔使い。彼女になら使われてやっても良い。そんな彼女に仕えるのがいっそ誇らしいとさえ思う。
 ……勿論、それ相応の対価はいただくけれど。

「さ、行きましょうか。ベルゼブブさん」

 彼女にしては控えめな報復に満足した佐隈が、ベルゼブブに向きなおり、にっこりと微笑んだ。その魔性の笑みに、彼も静かにわらう。

「えぇ」