「手、キレイだね」
ふとした、何気ない一言だった。
予報外れの雨天、気紛れに訪れた図書館で、偶然空いていた席がきみの向かいだった。
きみが視線を落とすのは、あたしから見ればなんとも小難しそうな本で、読書の習慣なんてないあたしはその本の分厚さを見ただけで眩暈がしそうだった。
「……さん、だよね」
その分厚い本から顔をあげて、きみはあたしの名前を呼んだ。
そのときのあたしにとってきみは、なんとなくみかけたことがあるかな程度の認識でしかなかったのだけれど、きみはあたしの名前を知っていたらしい。
驚きながらもあたしが何か用かと問うと、あんまり視線を感じたものだから、ときみは笑った。
「この本、好きなの?」
好きもなにも、そんな分厚いのなんて読んだこともない、読めるわけがない、とあたしがいうと、きみはもったいないなあ、といってまた笑った。
本なんて国語の教科書で十分よ、と大真面目にあたしがいうと、きみはじゃあこれはどうかな、と本を勧めてきた。
あぁ、これは知ってる。映画でみた気がする、とあたしがいうと、映画かあ…ときみは唸った。
きみ曰く、映画の出来はあまりよろしくないらしい。
そんなこんなと続く世間話に織り交ぜて、先の言葉をきみはさらりと言ってのけた。
「そんなことないって!」
一瞬の間をおいて、あはは、とあたしは誤魔化すように笑った。
そして、あわてて爪先をきみから隠すようにぎゅっと握りしめる。
その一方で、すこし、ほんの少しだけ胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感じが、した。
きみはどんな顔をしていただろう。自分のことに必死で、記憶があいまいだ。
***
いま、あたしは、きみを欲している。
正確には、…勘違いされないように先に断っておくけれど、これは恋でもなんでもなく、あたしはきみから紡がれる言葉が欲しいだけなのだ。
お気に入りのマニキュア。その小瓶を回しながらきらきらした中身をひとしきり眺めたあと、蓋を開けてシェルピンクのとぷりとした液体を掬った。独特の匂いが鼻腔に広がる。閉め切った部屋で嗅ぐにはどう考えても健康に悪そうだけれど、それすら構わず、あたしは指先に集中した。
縁で余分な液を落として、一呼吸おいてから指先へ筆を重ねる。筆先が爪に触れるとひやりとした。酷く人工的なそれが、あたしの呼吸を奪うのだ。
キレイに揃えた両の指先は薄らと色付いて、それに気付いたきみは言う。「キレイな指だね」と。きみの本を繰る長い指があたしの手をとって、恭しく口元に運び、そっとキスをしてあたしの指を解放した。
爪のひとつひとつに丁寧に色を重ねて、閉め切った部屋を満たす匂いにくらりとする。
そうしてあたしは恍惚を得ている、の、だろう。思考の欠片を構成するのは、きみの言葉にはじまって、果ては指先に口付けを乞うという妄想だ。…あぁ、思考が麻痺してるのかな。けれど、きみの視線に晒しても恥ずかしくないように、きみにキレイと言ってもらえるように、というのは本当だ。本は嫌いだけど、きみから言葉を引き出せるのなら読んでみても良いかな、とも思う。…少しだけ。
艶々とした爪をライトに晒して、あたしは満足して息を吐いた。